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建築家の役割とは?

2023/11/27
黒木正郎/MPM/建築家

 建築関係者の仕事は建物の建設に限らず殊のほか多様であることは本稿の読者であればご承知のことと思います。私自身、設計を主たるキャリアとして始めたものの、都市計画から法制度、歴史的建造物の保存と活用から最近では建築史と芸術史を若者に教えるなど「これできる?」と聞かれたことをとりあえずやってみるうち何が専門かわからないような建築関係者になってしまいました。設計を生業とする会社員ではなくなって5年近くとなり、設計以外でも何でも引き受ける自分の職業を何と自称したらよいのか自問した答えは結果的に「建築家」としか言いようがない、と考えています。逆に「建築家」とはどういう仕事なのか問われたときの答え方は意外と難しい問題です。建物の設計をする人、と言いきってしまうとそれは一般には「建築士」とか「設計士」とかいう技術者的なイメージですし、設計そのものをしなくても建築物の在り方を規定する役割を果たすこともできる、という矜持のようなものもあって人知れず悩んでいました。

 一昨年ですが、このことを真剣に考えなくてはいけないある場面があったので、今日はその時にまとめた話をもとに書かせていただきます。結論から申しますと「建築家」がそれ以外の専門家と確実に異なる役割を果たすべきことは3点に集約され、これら3点を建築物に何かしらの形で反映させることによってその建物が他と異なる生命力を持つに至らしめること、それが建築家の根源的な役割なのではないか、という事に思い至りました。
その3点とは
1. 新しい概念(思想とか、技術とか)に形を与えること
2. 場所を読んでその力を空間に与えること
3. 人のふるまいを(期待する方向に)導くこと
です。

 1は関係者の皆様であればその通りとご理解いただけると思います。思想とはコンセプト、と言い換えるのが適切かもしれませんが、コンセプトという個別的な概念を形に置き換える方法論はほぼ20世紀以降のもので、それ以前はその建物に最適な様式を選択することが形態操作の初動でした。技術的な選択肢が増えたことも背景にあります。一見、建築家、というとこればかりが仕事で、場合によっては独自の思想に基づく独創的な形態を生み出すことが仕事であるかのようにみられている危険もあります(建築家によってはそう信じている人もいるようです)。

 2も設計者の間では日常的に言われていることですし、優れた建築物が共通に備えている資質でもあるといえます。場所の持つ力が空間の力になって表れていること。「ゲニウス・ロキ」(地霊)などともいわれます。家の近所にゲニウス・ロキという称号の不動産屋さんがあって、さすがだな、と思ったりしたのですが、地霊を呼び出すこと自体は建築家でなくてもできることの証かもしれません。しかし建築家ならではのこの仕事の実例の一つとして挙げさせていただきたいのは「シドニーのオペラハウス」です。1954年のコンペ時に落選案の中から審査委員長エーロ・サーリネンによって拾い上げられ、それから完成まで19年という困難を乗り越えて完成したこのオペラハウスは世界で最も新しい世界遺産です。今もしあの場所にあるオペラハウスがあのものでなかったとしたら、機能優先、コストと工期に配慮された順当な形態のものだったとしたら、今のシドニーは平凡な一都市にすぎなかったでしょうし極端に言えば人類は自らの可能性の一つに気づかずに過ごしていたでしょう。場所には固有の力があること、それを形にして後世に伝えることは確かに建築家の役割であると思います。

 3は少し解説が必要でしょう。建物の成り立ち方は意図してかせざるかに関わらず人の行動をある方向に誘導します。設計を生業にしている人にとっては常識ですが、そのことの意味を建築とは別の視点から論理立てた人がいます。1999年にローレンス・レッシグという米国の法学者が、人間の行動を規定する「制度」には4種類あるという説を発表しました。もともとはサイバー空間における人の行動の誘導を規制する手段についての論考からまとめられたものです。レッシグによれば、私たち人間は様々な形で日々の行動を規制されている、規制というとまず法律を思い浮かべるが、それだけではない。4つとは法律、道徳、市場、そして「アーキテクチャ」だというのです。法律はその通りの禁止、道徳は秩序感への訴求、市場とは損得勘定。それではアーキテクチャとは何でしょうか。一般に「建築」と和訳されている言葉ですが、ギリシャ語(アルケ・テクトニケ)の原意によれば建物に限らずモノやソフトウエアなどの「設計思想」とか「構成原理」のことです。それが人の行動に及ぼす影響とは、例えばスマホのアプリなどで初期設定が「申し込む」になっていて、気づかぬうちに広告メールが届くようになる、などというものです。行動経済学では「肘で軽くつつく」という意味の「ナッジ」とも言われたりもします。たしかに無意識に働きかけたりある方向に誘導されたりする手法は、法学者から見ると規制誘導に分類すべきものなのだとおもいます。しかし建物の設計にそれほどまでの力があるのだろうか、という考察は必要です。

 一つ思いつくのは「犯罪を減らす公衆トイレの入り口の配置」です。建物の中央にある一つの入り口で男女に分かれる形式と、建物の両端にそれぞれ入口がある形式を比較した場合、女子トイレに潜む悪漢が少なくなるのは後者の形式で、本来でない方向に歩くことを心理的に抑止する、ということです。建築家はこのような空間構成の影響力についてある程度の知見がありますが、建築家ではないのにそれを看破していた人がいます。第二次大戦のときの英国の首相ウィンストン・チャーチルです。

 ドイツの空爆で破壊された英国の下院会議場の再建にあたって、チャーチルは以前の形式を寸分たがわずに再建することを議会に要請しました。英国の下院は与野党議員の座る議席がひな壇状に対面する長椅子で、机もなく窮屈なうえに全議員分の席もありません。議員は興味のある議題の時に参集し、座れなかった場合は傍聴席から議事に加わるのです。チャーチルはある意味不完全なこの議場を、英国の民主主義の伝統を守る拠り所であるとして演説でこう主張しました。「建物を形作るのは我々だが、その建物がのちに我々を形作ることになる。議員全員を収容するような議場にしてはいけない。下院での優れた議論の神髄は、軽快にやり取りができる対話スタイルにあるからだ。そのためには、小さな議場と打ち解けた雰囲気が欠かせないのである」と。無意識のうちに環境に左右される人間の特性を言い当てていると思います。世界中には実に多様な民主主義の形がありますが、議場の形式もそれに合わせて多様です。独裁的な権力者の言説をほぼ全員与党の議員たちが拍手で賛同する「民主主義」の場合は壇上の優雅な政府席と密集した劇場形式の議員席の対面、米国や日本の場合は与野党が半円形に広がる両翼をなす形式、全員一致が原則の国連安保理は円形席など、です。議場の形式と議論の質の関係を論じた研究の存在をわたくしは知りませんが、建築と別の何かの学際融合領域のテーマとして興味深く思っています。

 私自身も建物が人のふるまいと精神の在り方に影響する事例を経験したことがあります。今から25年近く前の、ある私立の中高一貫の女子校の校舎の改築プロジェクトでした。それまでのこの学校は残念ながら入学偏差値は30台のいわゆる滑り止めで、四年制の大学に進むのは学年に数人でした。学園の理事長からは、それまでと全く違う学校に生まれ変わらせたいという要望をいただいたので、うつむき加減な生徒たちの目線を上げさせようと思い、天井が高くてトップライトになっているエントランスホールとその正面にあるガラス張りの図書館を持った校舎を設計させてもらいました。この学校の生徒たちに足りないのは学力ではなくて「誇り」ではないのか、あの子たちが育つにふさわしい空間を経験すれば、どこかに隠されている誇りを発見できるのではないのか、と考えたからです。

 新校舎になって生徒たちのふるまいは劇的に変わったようです。建て替えの翌年、大学進学者が半数を超え、今ではこの学校は毎年最難関の大学に多数の合格者を出す進学校に変わりました。よく言われるのは「校舎がきれいになって入学者の質が上がったのですね」という評価です。それもあるかもしれませんがきっかけはそうではありません。新校舎ができて三年後、開校以来初めて東京大学に合格者を出したのですが、この生徒さんは偏差値30台の中学に入学した子です。そのころの生徒たちを指導していた現校長に、どうしてそういう事が起きたのかを聞きました。とても明快な「スイッチが入っちゃったのよね」というこたえでした。中学三年の冬に新校舎に移って、それから明らかに生徒たちが変わったというのです。スイッチは誰もが持っています。「アーキテクチャ」がそのスイッチを入れさせる力として働くことがあるのであれば、これこそほかの誰でもなく建築家がなすべき仕事なのだろうと思います。

 

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